僕とお金

今日はちょっと雰囲気の異なるブログを書きたくなりました。それが題名の「僕とお金」。

お金に対する考え方、価値観ってライフスタイルを考える上でもとても重要だと思う。

お歳暮の時期の12月になると思い出すことがある。
僕が初めて稼ぐという体験をした時のこと。

あまり公開することではないかもしれないが、僕は小学3年生で稼ぐ体験をしていた。

3人の子供の養育費が増す中、父は版画家兼デザイナーで固定給ではなかったため、お金のある家ではなかった。母は僕(末っ子)が小学校3年生の頃から徐々に仕事をするようになった。まずはあまり時間に縛られることのない空いた時間できる仕事で、その仕事がお歳暮配達とチラシ配りだった。

お歳暮は一つの荷物を届けるといくらと決まっており、チラシも配った枚数でお金がもらえる。夕食前や夕食の後などの数時間でやる仕事だった。

小学校3年生の僕は母のその仕事にくっついて、お歳暮やチラシ配りをした。
小学校の頃、住んでいたところがマンション(団地のようなマンション)が多かったというのもあり、母と階を分けて分担してお届け物をしたり、チラシを配った。当時は玄関に暗証番号やロックのあるマンションなんてまだほとんどなかったのでそれが可能だった。

インターホンを押し、立っていたのは台車に荷物を乗っけた小学3年生の僕一人。
「お届け物です、印鑑をお願いします」

今そんなことしたら、世間から何を言われるかわからない(笑)

でもその時は、
「あら、偉いわねー、お手伝い?」
くらいだった。

不在の時は、きちんと不在票を書いて入れた。

母は僕が一人で荷物を配ると一つにつき50円をくれた。
30個くらい一人で配達する時もあり、2時間くらいで1500円になる時もあった。よくわかってなかったけど、とても楽しかった。

僕は小学校1年生から少年野球に入ったんだけど、少年野球をはじめた時に新しいものを買った記憶はなく、すべてお下がりだった。グローブくらい買うだろうと思うかもしれないが、毎回コーチから借りて、そのうちそれはもうあげると言われた。小学6年の最後にはじめて自分のグローブを買った。結局6年間バットは自分のはなかった。

中学校の時、僕の周りの友人はみんなナイキのAir MAXとか、Airなんちゃらみたいな靴を履いていたけど、僕は一人PUMAだった。みんなで買い物にいっても僕はだいたい何も買えなかった。馬鹿にされたことも何度もあった。

高校では部活に入る選択肢はなく、自分で好きな物を買うお金が欲しかったので入学後すぐにアルバイトをはじめて、PHSを自分で契約し、最初は服などを買い始めた。

幸運なことに、友達や先生に恵まれ、高校生活の中では、さほど周りの目は意識する必要がなくなった。友人は人間の中身を見てくれる人が多かった。そのため伸び伸びと夢を描き、やりたいことをやっていた。

僕は姉兄に比べると勉学ができなかった。両親に迷惑をかけないように、現役で国立大学に入ろうと決意して、高校2年の夏から高校生活を楽しみつつ、早々と予備校に通いはじめ大学入試に向けて準備をはじめた。今でも思うけど単科での受講だったけど、両親はよく僕に予備校に通うお金を工面したなと思う。

その甲斐もあってか、母校からは現役では5人しか行けなかった国立大学(新潟大学)に現役で入ることができた。

大学4年間、授業料免除申請を行い、成績も単位を落とすことはなく真面目にやったためか、全額免除の時もあれば、最低半額免除になっていたので、授業料はあまりかからなかった。生活費などは奨学金とアルバイト。アルバイト収入が低い時は仕送りをもらった(だいたい毎月3万とかお願いしていたけれど)。サークルとかに入ろうかと思ったけど、道具やユニフォームに10万とか絶対無理で、いくつか見学に行ってアルバイトの時間が最優先だよなと思って結局入る機会を失った。

最初は学生寮に入っていて楽しかったんだけど、大学から遠く、付き合いだったり組織が面倒なところがあって(集団が苦手)、お金はないけど2年生から寮を出てしまった。

自分が選んだ生活だけど、そこからはほんとにお金がなかった。理系だったんで、実験道具とか野外巡検とかにお金を使うことも多くて。

教科書も自分のお金で買っていて、奨学金とかアルバイトの給与前に財布に300円とかしか入ってないことなんて毎月だった。学食の298円の弁当を買えずに、アパートに戻って、インスタントラーメン食べたり、ツナ缶にマヨネーズと醤油をたっぷりかけて食べてた時があった。いよいよ食料も底をつきそうだという時には、母にお米を送ってもらったりもした。

大学の友人には、僕の3倍の家賃のアパートで快適に暮らしていたり、ほとんどの友人は、仕送りだけで生活して、車をプレゼントされてしまう人なんかもいて、僕は正直当時は悔しくて堪らなかった。

新品の服なんて買えなくていつも古着。古着って言ってもシーズンに1枚何か買えれば良かった。ファッション雑誌なんて読んでも買えないからと、いいなーっと思いながらチラ見する程度だった。

そういう背景もあって、僕は進学なんて選択は一切なくて、早く就職して自分でお金を稼いで一人前の大人になりたいという気持ちがとても強かった。大学時代からずーっと欲しいと思っていて買えなくて我慢していたものがあって、それがこのトップの写真のノースフェイスのダウン。大学時代、暴風雪に晒される新潟でこのダウンがずっと欲しかったけど買えなかった。

このダウンは入社1年目の冬に買った。

購入した時、涙が出るほど嬉しかった。明治通りのノースフェイスのお店。今も大事にしていて、今も着ている。痛みも一切なくて、いつまで使えるんだろうってくらい。たぶん、僕はこのダウンだけは一生着続けるじゃないかって思っている。

この写真は2005年、入社1年目にダウンを買って営業の同期と日帰り箱根旅行に行った時の写真。わ、わかい笑

この大学時代の極貧経験は、僕がウェザーで営業成績1番を取りたいというモチベーションにつながったと思う。僕は同年代・同期の誰よりも仕事をしたという自負があり、25歳で周りから驚かれるほどの収入になっていた。

しかし、それが良かったかというと、その後、お金の使い方は雑になり、忙しくて時間があればパーっとお金を使う生活に変わってしまい、上から目線になることもあれば、ストレス解消のためにお金を使っていたんじゃないかって思うほど。別にお金がめちゃくちゃ欲しかったわけではないけれど、何にお金を使うのか、誰に使うのかが不明瞭だったからだ。

僕は今、海外旅行に行っていて余裕あるように見えるかもしれないけれど、経営や実現したいライフスタイルのために、リーマン時代の3分の1の年収のまま。そこから返済などもしているから、自分で使えるお金なんてわずか。少し寂しいのでもう少しは増やそうと思うが、豊かな生活をしていると思っている。

バランスって難しい。でも様々な経験から、僕の理想のライフスタイルや価値観の中で必要なお金ってどれくらいなのか、だいぶわかってきたところだ。せっかくここまで読んで頂いたのだから、あまり考えたことない方は考えてみてはいかがでしょうか?

そして大事なのが、

「何にお金を使いたいか」

「誰に使いたいか」

それが曖昧だと、お金がなくてもあっても、人生がブレる場合がある。父と母は明確だったんだと思う。先ほど述べたように僕のリーマン時代は不明確だった。

以上、お金と僕でした。

最後に、

今年は上高地の霧氷を見るプライベートガイドツアーをやっています。

天気次第ですが、特別な体験を提供できると思います。僕は冬場、営業やクリエイト活動に時間を取りたいと思っており、フレキシブルに対応が可能です。ツイッターで前日夕方に霧氷予報ツイートしますので、行きたい方は連絡お待ちしています。

 

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