人生の転換点 後半 人生を変えた一言

 前回のブログで私の中での内面の変化を書きました。
 いろんな内面の変化があったとしても、10年間リーマンをやっていて、収入なり地位(大した収入や地位ではないですが)を得ていると、歩んできた道を外れることにはかなりの勇気が必要ですよね。なぜ、そこを決断することができたのか。今考えても、よく決断したなと思います。

 決断の背景には、勤めていた会社の仕事内容も関係しています。
 仙台に赴任することになったのは、震災後の東北のためにできることを考えるなどいくつかありましたが、中でも大きなプロジェクトがありました。それが2014年4月末に一段落したというのがあります。

 実は今だから暴露しますが、正直に言うと、そのプロジェクトが「私の中で」自分の仕事に対するモチベーションとあまり紐付けられずにいました。意味や意義は理解しているつもりでした。そして、世の中には好きなことばかりでなく、「やらなければならない仕事」があり、真の実力者であれば自分のモチベーションなど関係なく、もしくはきちんと自分のモチベーションと紐付けて、結果を出すものだろうと。

 責任ある立場でしたし、お給料をもらって仕事をしてますので、会社のミッションは自分のモチベーションとは関係なく、自分なりにベストを尽くして取り組みました。特に最後の1年は休日なんてほとんどなく、土日も東北を駆け巡っていた。
 しかし、今思えばそうやって休みを取らないことで、自分を安心させていたのかもしれません。自分は一生懸命に仕事をしていると、自分に暗示をかけていたのかも。

 そして、その仕事がGW前の2014年4月末に一段落しました。
 プロジェクト終盤は終わったらとにかくどこかに行きたいと思っていました。仙台での最優先事項を仕事にして沢山の事を我慢した1年でもあったので。
仙台に来てからプライベートでも上手くいかないこともあった。会社入ってから10年目、年齢も30歳を越えた。さて、この先どうしようかな。ちょっと離れた場所で少し考えたいなと。

 昔からマチュピチュに行くことが夢でした。あの景色になぜかずっと惹かれていました。
 GW前半の休日の29日とか30日だったと思いますが、後半からいくぞと決めて直前のバカ高い航空券を手配しました。ほんとは、ウユニとか、チチカカ湖とか、ナスカの地上絵とか、そんなところも行きたいなと思いながら、その後仕事もあるから無理でした。3泊6日(飛行機で2泊で空港で1泊含む)だったと思います。これがその時できる最大の私の休暇。泊まるところは成田に行く道中でささっと適当にゲストハウスなどを選んで決めました。

 ロサンゼルス、ペルーのリマ経由でかつてのインカの首都であるクスコ(標高3400m)に降り立ちました。

クスコ

 ちなみにすでに飛行機と空港で2日経過
 3日目の朝にクスコに到着し、荷物をゲストハウスにおいて街を歩き出しました。
クスコのゲストハウス

 このゲストハウスの造りいいなと思います。中庭からそれぞれの部屋の玄関にアプローチする。共用部分も中庭を通っていくんですよね。こんな造りのゲストハウスいいな。でも乗鞍の冬は厳しいですね(笑)
 マチュピチュしか頭になかったので、歩き出してからいろいろ情報収集して、次の日のマチュピチュまでの電車のチケットを手配して、帰りが満席でチケットが取れなかったのですが、まあなんとかなるかと思い(それ運命を大きく左右したのですが)そのままクスコ周辺を探検することにしました。クスコの近くに沢山の遺跡があることを知り、時間もないので1dayツアーに参加して遺跡巡りをしました。
クスコの近くにある遺跡

ツアーバスの中

 ツアーバスの中では子供が乗り込んできて、民謡を歌ってくれました。
 こういう衣装とか歌とかって文化を体験できて良いですよね。乗鞍的な民族衣装って何だろう?

 次の日は朝一でマチュピチュ行きの電車に乗り、3〜4時間かけて麓の街に到着。電車はとってもゆっくりでしたが、快適でした。

マチュピチュ行きの列車①

マチュピチュ行きの列車②

マチュピチュの麓の街①

マチュピチュの麓の街②

 午後から早速バスに乗って、マチュピチュに出かけました。
 本当はワイナピチュという山(下の写真の奥の山)に登りたかったのですが、すでにその日は入山制限人数に達しており行けませんでした。何かを保護するのであれば、この入山制限という考えは一部日本でもありますが、もっと取り入れたいですよね。登山をすることはなくなったので、4時間くらいゆっくりと夕暮れまでただ遺跡の中を歩いたり、座って景色を眺めてました。
マチュピチュ①

マチュピチュ②

 なぜ、こんなところに都市を築いたのか、どんな暮らしがここにあったのかを想像して、ロマンを抱きました。
 座りながらただぼーっとしながら考え始めました。

 弾丸でも来てよかったなー。
 もっとここでゆっくりしたいなー。
 世界の美しい景色をもっともっと見たいなー。
 死ぬまでにどれくらい世界の美しい景色を見れるんだろう。
 次に3連休取れるのっていつだろう。。。取れて3連休かよ。
 何かを得るためには、いろいろ我慢って必要なのかな。
 ここに来れただけ、幸せかー。
 仕事はやりがいあるし、天気好きだし、楽しい時も沢山あるんだよなー。
 温泉宿やりたいなー。いつできるかなー。
 稼いだお金、おれは一体何に使ってるんだろ。
 何のためにお金を稼いでいるんだろ。
 そんな事を悶々と考えていました。

 次の日も朝日をマチュピチュでみたいと思い、朝一のバスに乗ってマチュピチュへ。霧がかかっていて、クリアではなかったですが、それでも幻想的な風景を見る事ができました。

朝霧のマチュピチュ

 そして、あっという間に帰路に。
 途中の街までは当日チケットが取れて電車に乗れました。街の名前は忘れましたが、そこからは電車に乗れず、どうしようかなと駅をフラつき始めたら、海外ではよくありますが、立っている兄ちゃんに乗り合いバスに誘われ、安かったし、子供も結構乗っていたので、大丈夫だろと思いそれで帰ることにしました。私ともう一人旅人が乗りましたが、あとは現地の人でした。その旅人が丁度私の隣に座りました。私よりも少し年齢が上のスペイン人の男でした(名前覚えられなかった。。。)。

 クスコまでのバスの時間は2時間くらいだったと思います。
 旅人は我々2人だけだったので、自然に会話がはじまりました。最初はお互い不安もあったんでしょう、クスコに行くのか?と質問され、Yesと答えた。
この時、安心したんですよね(笑)、きっとスペイン人も。何か事件があってもたぶん2人で逃げられるという安心感(笑)

 それから、今回の旅の話になり、彼は南米をいろいろ旅をしていて、1ヶ月過ぎていて、このまま下って、マゼラン海峡に行く予定でした。はじめは彼の旅に興味があり、私はいろいろ質問をしていました。どこにいった?どこが綺麗だった?など。一通り聞いた後、スペイン人がこの後はどこに行くの?と聞いてきたので、私は今日が最後の日で、このまま日本に向けて帰るんだという話をしたら、彼が言いました。

 「このまま旅を続けて、一緒にマゼラン海峡行かないか?」

 私はこの問いかけに、自分の心が揺れたのを鮮明に覚えています。
 やべっ、面白そう、なんだそれ、行きたい!!!!

 すぐに我に返り、「行きたいけど、仕事があると答えました」
 彼も誘いは冗談半分だったと思います。

 ここからは会話形式で(S:スペイン人の旅人、Y:Yuma)

 S「今回の旅はどれくらいの日程なの?」

  嘘言おうかと思いましたが正直に話ました。
 
 Y「3泊6日」
 
  俄かに信じられないような顔をされ、私の目を見続けて
 
 S「日本から?」
 
 Y「はい」
 
  彼は手を頭にやり、少し呼吸を置いて、再び私の目を見て言いました。

 S「Are you stupid ?=おまえは馬鹿か?」
 

 はっきり目を見て言われました。馬鹿(笑)

 人生を変える一言って、あるんですよね。
 私はこの一言が、胸にぐさーっと電撃が走ったように突き刺さりました。そのスペイン人の目が、怖くはないんですが、とにかく力があり、あの目を忘れられない。
 
 そして、「Yes, I’m stupid」 と答えたのを覚えています。

 それを言いながら、自分が馬鹿であることに気づきました。
 あ、おれって馬鹿だなと(笑)
 
 その後はこの話は終わり、確か日本の文化とか、そういう話をしたと思います。あまり記憶にありません。会話しながら、会話とは別のことを考えていたからだと思います。その別のこととは、自分の人生についてでした。

 我慢して我慢して、それで少し解放されて、取った休日が6日間。
 これが10年勤めて最長記録。
 この先、どれだけいろんな事を我慢するんだろうと。
 我慢の先に何があるのだろう。
 我慢して仕事して何が残せるのだろう。世の中に貢献できるかもしれない。
 でも何を残せるんだろうか。
 てか、残せる事とか考えてもあまり意味ないんじゃないか。
 先の事なんて、誰もわからない。
 ずっと我慢ではないにしろ、やりたいことをやれずに、死んでいくのか。
 定年後まで待つのか?いつだよそれ。
 その時生きてるのか?自由にできるのか?体力あるのか?お金あるのか?
 自分が好きに生きていながら、世の中に貢献できることは沢山あるよ。
 というような事が頭を駆け巡ってました。

 そして結論
 「自分の時間は自分でコントロールしたい」
 「先の事なんてわからないから、もっと今、この時間を大事に、自分が大切にしたいことを中心に考え、気持ちの赴くままに素直にやりたいことをやりたい」
 
 そう考えたら、会社勤めしている限りこれはできないと思い、半年以内に会社を辞める決意をしました。
 なので、転職という視野は一切なかったです。今の日本企業では、上記の2点を実行できる場を私は知りません。よって起業は必然でした。ちなみに、馬鹿と言われたあと、バスの中で自分はすでに頭の中に、「退社」という文字が浮かんでました。帰りの飛行機はすでに退社までのマイルストーンを考えてました。いつどのタイミングでどう辞めるか。立つ鳥跡を濁さず、円満に退社するためにはどうすれば良いのか。期中がいいだろう。それまでに今期の東北の売上計画の目処を立てよう。などと。

 決断する土台は前回のブログ記載したようにすでにできていたからこそ、スペイン人の一言が、一歩を踏み出す後押し(勇気付け)となり、決断に至りました。いつかありがとうと言いたいけど、名前も覚えてないし、写真も撮ってないし、もう会えないだろうな。。。

おまえは馬鹿か?

 「おまえは馬鹿か??」

 この先は実際に辞めるまで、辞めた後どのようにこのGuesthouse Raichoに至ったかを何回かに分けて紹介します。

 補足(要らないかもしれないけれど)
 あくまでもこれは私がいろんな背景があって感じた「馬鹿」です。
 何事も一生懸命はとても素晴らしいこと。時に我慢も必要。多くのリーマンがいなければ今のこの世の中は存在しない。
 大切にしたいことは人それぞれ。それを大切にするために、人には様々な道があると思います。
 
 GWが近づいて来ましたが、お休みとれてますか?
 話せてないエピソードもまだありますので、知りたい方は是非Raichoへ。GWに飲みながら話しましょう!!

Guesthouse Raichoのご予約は以下からお願いします。
予約はこちら

人生の転換点前編 東北・仙台時代

今回からいよいよ脱サラ&起業の道に進んだ背景や過程について何回かに分けて詳しく書いていきます。

前回のブログでも記載しましたが、以前勤めていた会社は震災後の東北、仙台に私を導きました。会社の中の立場にも変化があり、東北6県の営業を統括するリーダーとして赴任しました。小さいチームながらも部下(この言葉はあまり好きではないが)もできました。

震災から半年ほど経ってはいましたが、赴任してからすぐに東北の沿岸部を一通り回りました。


まだ震災から手付かずの場所で瓦礫の山になっているところが沢山ありました。家族が被災した、身内が亡くなった、家が流されたという方にも何人もお会いしました。

東北には3年と3ヶ月いました。
私が震災後の東北のためにできたことは無いに等しかったと思います。
しかし、私が東北から得られたことが山ほどありました。
それらを詳しく紹介したいと思います。

・直向きに大切にしたいことに向き合って生きる
まず東北の人たちは我慢強いなと感じました。
気候の要因もあるのかもしれません。厳しい冬を乗り越える忍耐力が必要だからかもしれません。

物事をそんなに言わない、望まないんです(もちろん全員ではありません)。
あれだけ破壊されてしまった街が、課題を抱えながらも、乗り越えながら、今もまだまだ復興過程ですが、人々の手で少しずつ少しずつ街が再建されていきました。
 そのみなさんの直向きに前を向いて生きて行く姿を間近で見て、私は人生で大切にすべきことって何なんだろうと考えさせられました。
東北の人たちには、人生で大切にしたいことがあったんだと思います。もしくはこの震災を経て改めて気づいた人も多いのかもしれません。
 
 被災者の多くは今回の津波があっても、故郷の元いた場所に住みたいという思いがありました。実は仙台に3年間いた時には、私はその気持ちが良くわからない時がありました。
 山を削って、嵩上げして土を盛って、防潮堤作って。そこまでして、自然の猛威にもう一度晒されるかもしれない場所に住みたいのかと。
 しかし、この乗鞍に移住してからはその気持ちがわかる気がします。東北は自然が本当に素晴らしい。太平洋沿岸は美しい海と自然とマッチした古き良き日本の漁港が沢山あり、山も沢山ありました。海と山の恵みを日頃から得られるその土地に住むことは、不便で厳しい環境であっても本来の自分でいられ、幸せなことなんだろうと。

 
 そう考えると、原発事故の被災者には、さらに胸が痛みます。
 津波に加えて放射能汚染。
 国や行政は帰還を進めてますが、自然災害の危険とはまた別ですよね。
 津波の場合は、ここに住めば津波に襲われる可能性があるってのは、ハザードマップなどでわかります。しかし放射能はいろんな情報があり、何が真実なのか、何を信じればいいのか、よくわからないってのが正直なところなのではないでしょうか。だから、まだ自主避難を続ける人の気持ちが少しわかる気がします。
 
 「自主避難が自己責任」という言葉には驚きました。
 今回の原発事故は、原子力政策を進めた国と東電に責任があり、被害者が居住・避難・帰還のいずれを選択した場合でも、国が支援を行うって法律で決めたにも関わらず、国は「福島県を通じて支援する」という形で、役割が終了したかのようなスタンス。そして自主避難者を自己責任という。今回の原発事故に限らずですが、仮にもし事故や事件の終わりを決められるとしたら、それは加害者ではなく、被害者ですよね。自主避難を国や東電にさせられたにも関わらず、避難していることが自己責任だと。大臣が他人事で復興ができるんでしょうか。
 福島の原発事故の被害者のみなさん、我慢せず、怒って下さい。 

 おっと、本題から離れてしまいました。失礼。ここで止めときます。

 東北の人たちはお祭り好きです。
 短い夏に多くのお祭りがあり、市民が主役となってその祭りを作っていく。東北の名だたる祭りに行きましたが、人々が本当に楽しそうに踊ったり、実演する姿がとても素晴らしく輝いており、羨ましかった。

盛岡さんさ[caption id="attachment_589" align="alignnone" width="700"] 仙台七夕
[/caption]
秋田竿灯祭り

青森ねぶた

 東北ではほとんどの仕事が季節と関わりがあります。仕事が自然と密接に関わっているということです。
 それぞれの季節を感じながら普段の生活とかけ離れない、むしろほぼ一体となっている仕事をしながら、仲間や家族と遊んだり、年のイベントや祭りに一緒に参加する。そこには目立たないながらも小さな幸せが私には見えました。
 
 震災後の東北の人たちと関わる中で、私は人生で大切にすべきことって何なんだろうと考えるようになりました。
 別に大きいことをする必要はない。別に目立たなくてもいい。仕事に大きい小さいはない。かっこよくなくてもいい。そんなに無理してお金を稼ぐ必要はない。直向きにシンプルに大切にしたいと思うことに向き合って生きていくことの方が、素晴らしいのではないか。と。

・自然と温泉の魅力を再発見した
 以前のブログでも書きましたが、仙台という土地に住み、東北6県を毎週グルグル回っていたこともあって、自然が身近になりました。
営業先も山の中のダムとか、田舎の自治体に行くことも多く、道中含めて、仕事の中でも東北の自然の風景を目にするようになり、休日も山が近かったので時間を見つけて山やスノボに行くことができるようになりました。

 自然にいる時間は、先に述べた大切にしたいことを考えるとても良い時間となり、会社勤めで仕事に一心不乱に向き合っている中で、見えなくなってきていたものが、少しずつまた姿を現してきました。もっともっと美しい景色を見て、自然で遊びたいという想いが湧いてきました。

そして温泉。休日に泊まりでも行きましたが、出張先の街に温泉があることもよくあり、仕事が終わってから立ち寄り湯なんかもよく行きました。

酸ヶ湯温泉

青根温泉湯元不忘閣

 東北には名湯が沢山あるのですが、その近さと温泉の泉質の良さで何度も通ったのが、仙台市内から30分の「明日の湯」。後輩(部下)たちを連れて何度行ったことか。
 お気に入りの温泉はいくつもあるんですが、一つあげるとすれば、福島の高湯温泉。乗鞍高原温泉と同じく硫黄泉。生命の源とも言うべきでしょうか。高湯温泉(特によく言ったのが、日帰り入浴施設のあったか湯)に入ると、リラックスはもちろんのこと、見えないパワーをもらえました。
 温泉のリラックス効果って、ほんと凄いですよね。東北の3年間でこの魔法のような自然の恵みである温泉の虜になっていました。
そして、このようにパワーを与えられる場を作りたい、もっと温泉を身近にしたいと、元々の夢である温泉宿をやりたいなという思いが湧き立たっていきました。

・人を変えることはできないけど、変われる
 立場が変わり、東北という場で後輩(部下)とチームを組んで仕事をする中でわかったことが、「人を変えることはできない」です。
ただし、「変わることはできる」というのが私の考えです。これはまた次のブログにもつながりますが、まずは前半部分の「変えることはできない」の部分を書きます。

 会社の目標があり、東北のチームの目標を定め、そして個人の目標を定め、それに向けてチームの皆で仕事を進めていくわけですが、その目標を達成していく過程には様々なことがあります。私はリーダーとしてチームの計画の履行責任があるので、私個人の目標だけでなく、後輩たちが目標を達成するためのフォローをする必要がありました。組織的に提案を後押ししていくというようなチームプレイはもちろんですが、期日までに仕事ができないとか、計画を立ててもそれが実行できないとか、提案の仕方がわからないとか、お客様の言っている事の本質が理解できていないとか、お客様からのアクションを放置してしまっているとかの日々の細かいフォローもあります。

 一般的には上司と部下の関係では多くの場合、このような日々の細かい事項のフォローとして、具体的なアクションのサポートに入ると同時に、精神論で諭すような形で接してしまいます。私も未熟さからそういう時が何度もありました。私が仙台の3年間通して、後輩たちと密に接する中でわかったことは、後者の精神論はほとんど意味がないということでした。

 上司であれば、部下の成長はチームの成長につながるため、部下を成長させたいという想いを持ち、成長させるためには、部下のこの部分を変えた方が良いと思ってしまいます。しかし、人は見ている景色がそれぞれ違い、興味も人それぞれ、仕事に対する想いの度合いも人それぞれなんですよね。なので、どう成長したいか=どう変わっていきたいかやチームのゴールや目標を共有できていたとしても、それを実行するモチベーションと気持ちの重さはその人次第になってしまうのです。だからこそ、人が変わるのは、その人が変わる行動を取れるかどうかであって、その人を変えようと思って他人があーだこーだ言ったところで(特になんでできないの?なんでやらないの?っていう責めの質問は無意味)、その人は変わりません。ただし、その人が変わるためのチャンスをさりげなく準備したり、勇気付けは大切で、リーダーがチームに対してできることだと思います。

 そして、リーダーであれば、フォローももちろん大切ですが、例えばチームの計画達成は、個々に目標は立てるけれども、最終的なチームとしての目標達成はリーダー自身が一人でも達成できる計画を立て、それを実行して結果を出すことが重要なんじゃないかと。
やっぱりリーダーは背中を見せて、人間的に憧れる存在になることが重要なんじゃないかと思います。私がそうなれていたかは自信はないですが(笑)。
人は近ければ近い人間にほど、期待を込めて多くを望んでしまいがちです。そして期待通りにならなかった場合、がっかりしてしまい、最悪の場合、その人を責めて、お互いの信頼関係が薄くなっていき、関係が悪くなります。

 「人を変えることはできない」と気づいてから、「期待しない」というと物事を悲観的に捉えているような印象になってしまうので少し言葉を変えて、私は他人に「”ちょっとだけ”期待する」ようになりました。人だけでなく組織とか行政とかも。
結局自分の運命をコントロールできるのは自分なんですよね。今がある、未来の結果は自分がどう行動するかの結果であり、できないことを他人のせいにしたり、他人に期待し続けても、あまり現状は変わらないんですよね。ただし、ちょっとだけ心の奥で期待はします。でもちょっとだけなので、期待通りにならなくても仕方ないかって思います。その方が人間関係もうまくいくんじゃないかって思っています。

 誤解なきよう、仙台の後輩たちはとても良く仕事をしてくれて、むしろ私が未熟なリーダーですみませんでしたって思ってます。
 私は彼らと一緒に仕事をすることで、自分の人間としての未熟さに気づき、成長できる部分がありました。なのでむしろ感謝。
そして、この未熟な私にいつも付き合ってくれて、大変なことも沢山あったけれどいつも笑いがあり、10年間の会社勤めの中で一番楽しい3年と数ヶ月でした。特に長い時間をチームとして一緒に過ごしたTとMありがとう。そして短い時間だったけどWとSもありがとう。仙台の経理のHさんもありがとうございました。
 彼らは私にとっては家族のような存在です。これからも年に1回は同窓会のような形で会いたいなと思っています。

仙台時代の後輩TとM

 そんなこんなで長くなりましたが、東北・仙台での生活が、私が人生において大切にしたいことを考えるきっかけとなり、会社の中での立場が変わったことで人間としての未熟さを痛感して、成長できる部分がありました。
 そして今思えば、このような経験を経て、30代になるという年齢的な部分もあるかもしれませんが、私自信の物事の考え方や信条が変わってきて、私が自分自身の人生を大きく変えるための行動に出る下地ができていたのだと思います。

 そして人生を変える最終的なスイッチを入れたのは2014年5月のGWに弾丸で行ったマチュピチュの旅なのですが、その話は後編で!!
 長くなってすみません。ここまでお読み頂きありがとうございます!!

 GWと言えば、GWも4月29日、5月3日は満室となっておりますので、もし美しい新緑の乗鞍・上高地へ行きたいなと思っている方は、
 お早めにご連絡下さいませ。春の情報は以下も参照下さい。
 春のハイキングトレッキング情報 乗鞍高原・上高地

Guesthouse Raichoのご予約は以下からお願いします。
予約はこちら

千葉社中

今日はゲストハウスやオススメのライフスタイルの基本的な考え方となる
「シェア」について書きたいと思います。

以前のブログで香港時代について記載したと思います。
約2年半の香港駐在と、シンガポール支社の立ち上げのため、3ヶ月シンガポール滞在をした後、自分は2010年の4月から拠点を日本に移して東南アジアの営業担当をすることになりました。

日本に拠点を移すとなった時に、私がまず思ったのが、「一人で住みたくない」でした。
その理由は、
・香港は家賃がとても高く、若い人のルームシェアは普通であり日本でももっと増えて良いと思った
香港で困難なことにぶち当たった時に、一人でいる虚しさが身体に残っていた
・ルームシェアがカッコイイと思っていた(当時はまだテラスハウスとかもやっていない)
・一人では住めない、豪華なマンションに住みたいと思っていた
・海外出張が多かったので、一人で住むのも勿体無いとも思っていた

まだまだ若い頃だったので、ノリや格好良さみたいなところに憧れていたところも多いと思います(笑)

そして、ルームシェアをしたいと思った時に、真っ先に頭に浮かんだ2人がいました。
高校時代のスカバンドのメンバーであるSさんとSくんです。ちなみに大親友のI氏もスカバンドのメンバーでその時すでに既婚。
そして、早速電話をして、即答でOKをもらったと記憶しております。
※「記憶しております」というと今の国会答弁みたいですね(笑)

そして、3人の勤務地から千葉駅周辺で物件を探しはじめて、ある物件に出会いました。
その物件は京葉線の千葉みなとにある新築のマンションでした。
オーナーが新築のマンションを購入したが、海外赴任が決まって住めなくなったので2年間の賃貸に出したいという物件でした。
4LDKの新築マンションに住めるなんて、願ってもないチャンス。そしてスーパー目の前。スピード契約でした。

そして、3人のルームシェアの生活がスタートしたのです。

書き出したらキリがないので、一言で言うと、
とにかく楽しすぎた。なんていうか、20代後半に第二の青春時代を過ごしたというんですかね。

3人の根本にある信条というか、興味みたいのもほぼ被っていたからかもしれませんが、3人がいると笑いが絶えず、共通の興味のある話題で話が尽きませんでした。
私は海外出張が多かったので、月の半分以上は部屋を開けていました。
忙しかったので、朝も早くに出るし、夜も遅かったので、そんなに多くの時間を3人で共有していたわけではないのですが、心が通じ合う仲間が同じ屋根の下で暮らしているという安心感に心が満たされていました。


たまに3人で食べる社中飯

ルームシェアというといろんなトラブルがあるんじゃないかって思うかもしれません。確かに全くなかったとは言いませんが、それぞれが多少なりとも不満も持っていた部分もあるかもしれませんが、なんていうんですかね、根本的に、例えばその人の良いところと微妙だなと思うことをそれぞれが認めているというか、完璧な人間なんていないから、良いところを見ようとする姿勢と、微妙だなと思うところは、その人が自然に気づくような計らいを自然にしていたような気がします。言葉選びもみんなとても上手かった。
言葉選びが上手いというのは、それぞれに対して思いやりがあるということなのかもしれません。

思い出はこの辺にして、そこから何が見えたかという点でここからお話します。

持論ですが、一人暮らしという経験は必要だと思うが、そんなに長くなくて良いと思います。

経験として一人暮らしは重要だと思います。親の有り難みを知るとか、経済的な自立とか、生きる術を身につけるとか。
ただ、それをある程度経験として得たら、できるのであれば一人暮らしはしなくて良いのではないか、と思います。
もちろん一人暮らしが好きだという人はそれで良いと思います。

なぜそう思うのかというと
・やはり一人暮らしは孤独であり寂しい
→それが時に良くない方向に進んでしまうこともある
・光熱費等の生活費の負担が減る
→それぞれの基本料金が不要であるので必然的に一人当りの光熱費が減る
・一人では不可能なことがシェアすることで可能になることが多い
→いろんなシェアの状況によるが、協力関係の元、例えば以下のようなことが可能になる
一人では住めない場所に住める
誰かの買い物の時に、何かを買ってもらえる
知り合いが増える
誰かのついでに物事が片付くことがある
疲れて帰ったらお風呂が溜まっている
などなど、挙げたらキリがないくらい小さいこともたくさんあります。

ちなみに、休日がはっきりとずれている場合、帰って来るルームメイトのために食事を作りたいという気持ちが湧くんですよね。
不思議ですね。一人暮らしをしているとどうしてもコンビニ飯とかで済ませてしまう自分が忙しい中、自炊に時間を割いたりしました。

このルームシェアの生活から言えるシェアの利点とは、
・助け合いや協力関係が日常生活に存在する
・環境に良い(言い過ぎでもないですよね!?)=無駄な消費を削減できる
・ついでに片付くことが多い
・お金の節約につながる
・そして楽しい


スコーンが好きだと言ったら、後日食料品の引き出しに大量購入されていた件

ただし、これらの前提には、相互信頼が必要ですね。
ここが難しかったりするわけなんですが。この件は後ほどもう一度触れます。

逆に自分はほとんど感じませんでしたが、一般的なデメリットとは、
・プライベート空間が減る
・ルールやお互いの協力関係のために生活に縛りが生じる
・金銭的なトラブル、生活の中でトラブルが発生する場合がある

ここはルームシェアする人とどのように信頼関係を作り、その信頼関係の中でどうルールを決めるかに寄りますね。

次にゲストハウスやライフスタイルという観点に話をつなげたいと思います。

ゲストハウスとは、素泊まりを中心とした宿泊施設です。
そして、その中心にはやはりシェアという考えがあります。
例えば、
Dormitoryという相部屋
部屋もシェアしていまうという考えで、宿泊費が抑えられる
共用キッチンスペース


Raichoのゲストキッチン

自炊の基本となる調味料を個々に買わなくて良い
調理器具や食器がいろいろと使える
みんなで使うという意識の元、ゲストが綺麗に使おうと心がける
余った食材や個別に買った調味料などを次のゲストに残していくことがある
雰囲気で作った料理をシェアして小さなパーティーになることがある
・施設全体がセルフサービスを基本となる
そもそもゲストハウスを利用する人は、協力して宿泊するというスタンスで宿泊する方が多い
Guesthouse Raichoの施設詳細は以下を参照下さい。
Guesthouse Raicho

などなど。
そしてこのような宿泊形態だと、ゲスト側は基本サービスのみで後はオプション追加のため、安価で宿泊することができます。
宿側はサービス提供の負担(労力・仕入れ等)を減らすことができます。
ただ、気をつけなければならないのは、宿側は1人当たりの売上が1泊2食よりも低いことです。よって回転率を上げなくてはなりません。
なので単純に現在1泊2食付きの宿がB&Bなりゲストハウスのような形態にすると、仕入れコストや人件費は減るかもしれませんが、何もしないと売上は下がります。この点はまた別の機会で述べたいと思います。

ライフスタイルの観点で言えば、
消費を促進することで経済活動を活発化させようとする人たちからは、同調を得られないと思いますが、どんどんシェアする方向で動けば良いと思います。
企業がお金を稼ぎ、消費させるため、世の中便利になりすぎていて、サービスも行き届きすぎだと思います。
ほんとにそれって個々に保持する必要があるの?そんなに便利な必要ってあるの?ってものが世の中には山のようにあるのではないでしょうか。
すでにある部分でシェアがはじまっている部分もありますが、もっともっと進んでいいと思います。

ルームシェアはもっといろんな形態があっていいのではないでしょうか。
マンションとか、アパートでも共用部分とかもっと増やした家があっても良いと思うのです。

例えば大学生の一人暮らしのアパートに、それぞれ個別のキッチンとバス・トイレってそんなに必要かな?って思います。
個々のプライベート部分は上手く作って、あとは共用にしてサービスアパートメント的なサービスがあるようなアパートがもっとあっていいと思う。
就職したての若い社会人なんかは、個々の部屋にキッチンよりもおしゃれなパーティールームのような共用キッチンがあるといいかなって思います。
寮というと、なんだか古臭くて、いろんな縛りがあったり、体育会系の匂いがするので、そうではない形態に進化させて、何か別の言葉で言い換えた方がいいですね。

若いファミリーに合うようなルームシェアの形態もあって良いと思う。そうすると子育ての際の何かの負担が減るとか。
施設とかではなく、高齢者のルームシェアももっとあって良いと思います。
もちろん、前提には人の考え方とか生活習慣はそれぞれ違うので、いろんなルール作りや、快適に過ごすための工夫が必要だと思いますので簡単にはいかないと思いますが。

また田舎暮らしにおいても、若い人がまずはルームシェアからはじめていくというのもありですよね。
仕事を見つけてから来るというのも大事ですが、その場にまず身を置き、そこで好きなことをしながら仕事を考えるというのもあり。
そのために、まずはルームシェアでお金の負担を減らすとか。

そしてちょっと違った観点でのシェアしたら良いこととして、

・コンビニの24時間営業
道路挟んで反対側のコンビニがそれぞれ夜通し営業する必要性はない
・話題の宅配業者
僻地は業務提携などしてそれぞれが運ぶ必要はない
・移動手段
道路運送法は置いて、同じ目的地に行く車をもっと共有したい
・除雪車
今年の冬のために購入しましたが、高かった。。。

などなど、いくらでも挙げられますね。

ちなみに宿と宿で考えられるシェア
・送迎
僻地はとにかく不便なので行政等に交通手段を整えてほしいと要望したがりますが、私はまずニーズがある宿から送迎シェアなどをはじめて、具体的にビジネスになりそうだったら交通手段を整えるという形が理想だと思います。Raichoといくつかの宿で今それをはじめようかとしているところです。

ピークシーズンには毎日高山からのゲストを親子滝バス停に送迎している

・食事作り
個々の宿の仕込みはめちゃくちゃ大変ですよね。
技量もないし、大変だとわかっていたので旅館食のような形態はやらないと決めました。共同で食堂なりレストラン経営とかもありですよね。

・スタッフ
繁忙期は無理かもしれませんが、それほど忙しくない時に、あっちの宿で忙しくて、こっちは暇だという時のスタッフの融通
ちなみにこれは宿と宿だけではなく、地域が小さければ仕事のシェアもいろんな形が取れそうですよね。

などなど。

このように述べる様々なアイディアが浮かびますが、先にも述べましたがシェアするにはシェアする相手と相互信頼が必要ですね。それがないとトラブルの元ですね。
ちなみに、私の経験上ですが、相互信頼を築くためには、まず自ら手の内を明かすということが大事だと思っています。
実はこのブログも私の手の内を明かしている手段の一つで、読者の皆様と相互信頼を築く一つの方法であったりもします。
ただ、一方通行の部分もあるので、私が明かすことで、次に相手が明かしてくれるのを期待することになります。
そして相互信頼は、その人が大切にしていることを互いに共感するとどんどん深まっていきます。

最後に、ルームシェアの話に戻ると、
震災の年の夏に、私が仙台赴任を命じられたがために、私は1年半のみで先にルームシェアを辞めざるを得ませんでした。
本当はもっとこのルームシェアを続けたかった。
しかし、東北で何か役に立つことがあればとの思いで、私は震災後の仙台に行きました。

親友のSさん&Sくんには、この場を借りて当時私の提案を快く受け入れてルームシェアをしてくれて本当にありがとうと言いたいです。
我々は、熱い議論が交わされていたルームシェアのマンションの部屋を亀山社中に準えて、千葉社中と言っていました。


Sくんの結婚式の千葉社中3人組

将来、親友のみんなやその家族と近くに住んだり、新たなルームシェアの方法などで、多くの時間をもう一度共有できたら最高だなと夢見ています。
縁側でお茶を飲みながら、毎日世間話をしたり、ゲートボールしたり、バンドやったり、そんな時間です。
人はなりたい自分にしかなれない

では、また次回。

Mt乗鞍スノーリゾートは4月9日までの営業です。
まだまだ雪もたっぷりですので、もう一度滑りたいという方、お待ちしております。
以下の写真は3月23日に撮影したものです。


Guesthouse Raichoのご予約は以下からお願いします。
予約はこちら

白馬はどうなのか!?

今日はインバウンドの視点も入れて地方観光地の今後について思うことを記載します。

3月16日、白馬の栂池高原、八方、五竜、47と白馬駅前のオーストラリア人経営のハンバーガーとピザ屋を1日で廻ってきました。
最近、いろいろ今後について語っている乗鞍ローカルのS君と一緒に行ってきました。目的は半分遊び、半分視察です。

視察の目的は白馬が外国人スキー&スノーボーダーで大盛況と聞いていたので、この目で見てみたかったからです。

1日だけの視察で一部しか見ていないので、何かを述べるにはまだ情報収集が足りません。なので、あまり大したことは言えないのですが、それでもいくつか得られたことや感じたことがありましたので記載します。

3月中旬平日の白馬はかなりガラガラでした(そんなにMt乗鞍と変わらない)。
白馬駅前のピザ屋(オーストラリア人経営者)から聞いた話によると、白馬を訪れる外国人は12月のクリスマスから2月中旬までで、それ以降はあまり来ないとのこと。実際我々が行った各スキー場も日本人が95%以上。
ただ、冬期シーズンだけで、オーストラリア5万人、それ以外の外国人は2万人が白馬に訪れるとのことなので、ピーク時にもう一回見ないとその賑わいはわからないですね。

【街並について】

白馬は学生時代や社会人の時に来たことがありますが、ほぼ10年振りでした。
白馬が成功してるとか、変わったとか言われてたんで、どれだけ凄いことになってるのか、期待していました。
ところが、確かに外国人向けのお店が増えたり、英語の看板などが多くなったけど、店舗数とかあまり変わってないと思います。お店や宿泊施設の建物の多くは、どこもバブル時代の古い建物のままで、結構ボロボロの空き家も多い。駅前とかスキー場近くの通りも、時代が止まったままな印象を受けました。そんな中で外国人観光客を目当てにした看板や建物の設えがところどころ見られる。
正直なところ、そんなに魅かれる街ではありませんでした(白馬関係者いたらすみません)。

【スキー場について】

時期が時期なのかもしれませんが、雪質はトップの方だけはまぁなんとか良いなと思いましたが、中間から下はシャリシャリのザラメ。ボトムが1500mの乗鞍の雪質の良さを改めて感じました。

ただし、コースバリエーション、滑走距離、眺望やスケール感、各店の充実、レストランの選択肢の多さなどはやはり魅力的でした。それとスキー場で働く年齢層が若いのも印象的でしたね。

1日さらっと見ただけではほとんどわかってないのかもしれませんが、外国人スキーヤー、スノーボーダーから人気が出て、冬季の賑わいは少し取り戻したものの、白馬も抱えてる問題は他の地方観光地とあまり変わらず、まだ模索中なのかなという印象です。
白馬駅前のピザ屋(オーストラリア人経営者)さんは、「夏場の白馬は良いところだけど寂しいよ」と言ってました。
グリーンシーズンの白馬はまだまだ厳しい状況のようです。

地方観光地が抱えている問題とは(冬季視点で)
1.人口減少・高齢化
 →地方に住む人口が減ることで、街の賑わいが薄れていく。宿やスキー場運営の担い手が不足する。空き家が増える。
2.若者のスキー・スノボ離れ
 ある調査によると大学生で2016年にスキー・スノボに行ったのは7.4%しかいなかった。。。
 →平日、スキー場に来るのは、乗鞍で見ると定年後の60代クラスを良く見かけるし、白馬でも見ました。それと学生。
  60代クラスの人たちはどんどん減っていく、そして若者はあまり来ない。
3.平均年収の減少、若者の貧困
 →ウィンタースポーツはお金がかかるので、収入が減るとスキー・スノボをするハードルがあがります。

どれも頭の痛い問題ですね。。。

そこをカバーするのが、インバウンドなのでしょうか??

Raicho Kamikochi Snowshoweing tour
私は半分Yesで半分Noだと思います。
ある程度観光客の減少をカバーできるかもしれませんが、そこだけ注目しているだけでは、街の活気は取り戻せないと思います。
白馬は先に述べた通りまだまだ街の活気を取り戻しているとは言えないと思います。
そして、ただ活気があれば良いというものでもなく、「憧れる街」を目指す必要があるのではないでしょうか。
現在の白馬の街は、古びた日本と外国の雰囲気がごちゃごちゃしている印象です。

オーストラリア人のピザ屋の経営者が言ってました。
「外国人はパウダーや白馬のようなビックリゾートも求めているけど、Real Japanも求めている」
要するに、白馬はReal Japanではなく、外国人向けの観光地化しているということです。
これはニセコにも言えると思います。ニセコは日本とは思えない場所になってますよね。
私が白馬の街に魅力を感じなかったというのは、その部分でした。
白馬も今後どうしていくかは皆さんでいろいろプランを立てているのだと思います。

それと、通年コンスタントにある程度の賑わいがあるのも重要ですよね。
後で述べますが、観光客が来るというのも大事なのですが、やはり地方はそこに住む人がいなくては成り立ちません。
白馬の例で言うと、冬は雇用がありますが、夏は雇用が減る。要するに季節労働者に頼らざるを得ないということです。
そこに住むとなると、通年の仕事がある必要があります。
例えば、若いファミリー層が田舎に住みたいと思ったら、子供を養うだけの安定した収入も必要になるでしょう。
私の場合は、そういった意味でいうとかなり腰が軽く、どういう状況でも対応できちゃう感じですけど(笑)

白馬は夏のグリーンシーズンの売り込みに躍起になっているのだと思います。
スキー場のポスターもほとんどが冬ではなく、夏のPRが中心でしたね。
ゴンドラのアナウンスなども如何に夏の白馬が綺麗かを伝えていました。
私も予約サイトを使っているのですが、夏のピークで乗鞍・上高地付近の空室を探すと白馬の宿泊施設が出てくるんです。
これは、乗鞍・上高地に空室がないため、空いている近場ということで(近くもないけれど)白馬が出てくる。
要するに白馬の夏はホテルは供給過剰状態ということですね。

冬は真逆の現象が起きています。乗鞍は空室が目立つ。
乗鞍は通年楽しめる場所なんですが、冬が弱いのです。冬の乗鞍、ほんとに素晴らしいんですけどね。

ここは最高だと言っていたマレーシアからのファミリー

さて、先ほどの半分Noと言った部分(すべてインバンドでカバーするのかというところ)ですが、実は一番言いたいことはここからなのですが、結局、地方観光地が抱えている問題の対応として一番重要だなと思うのが、若い世代の人たちから「憧れる街になる」になり、Iターン、Uターンを増やすことだと思います。それと若者の観光客ですね。

善五郎の滝、ナイトスノーシューツアー
若い世代の移住者が増える、生まれ育った人たちが帰ってきたいと思う、憧れる街であえば、様々な問題が解決されます。
今波が来ているインバウンドへの対応はそれをするための一つの術と捉えた方が良いのではないかと思うのです。
インバウンド、インバウンドとなると、=外国人観光客を増やすとなりがちですが、目先の観光客増への対応をしつつも、やはり若者が憧れる街となり若い人のIターン、Uターンが増えるような街作りをしていく中で、インバウンドを考えていけば良いと私は思います。
外国人向けの観光地化をするのではなく、本来の日本の田舎らしさを残し(一部もう一度整備し)、埋没している魅力を掘り出し、それを磨いていくことで、そもそも地域の魅力がアップして、Iターン、Uターンが増える。そして外国人観光客がそれを体験したり、見ること、理解しやすくすることが重要なのかなと思います。それがReal Japanですよね。
私は街作りにも昔から興味を持ってますので、その辺も少しずつ何かできることをやっていけたら良いなと思いつつ、田舎暮らしに興味がある人の支援ができたら良いなとも思っています。

なお、これらの具体的なアイディアは乗鞍ローカルのS君を中心に今いろいろ練っていますので、こちらのページでも紹介できるタイミングが来たら紹介していきたいと思っています。

さて、最後に冬の乗鞍ですが、3月下旬になってもまだ氷瀑の滝を見ることができます!!
こちらは3月18日(昼)の善五郎の滝です。

こちらは3月19日(夜)の善五郎の滝です。

都会では桜が咲く頃ですが、まだ冬を楽しみたい方、お待ちしてます!!
Guesthouse Raichoの宿泊やツアーの予約は以下からお願いします。
予約はこちら

香港時代 若いうちは苦労を買ってでもした方が良い!?

昨夜、とても嬉しい再会がありました。
去年の秋に来てくれた香港からのゲストがまた来てくれました。
会いにきたよ、っと。そして、帰りがけにまた来るね、っと。

旅程の通過地点だったとはいえ、友達のようにそう言ってくれた彼らになんかジーンときちゃいました。

そして、香港時代について少し書きたくなりました。

私の場合、苦労を買ったというか、厳しい環境に飛び込んだとでも言いましょうか。でもその厳しい環境のお陰で間違いなく今があります。

私が就職した会社は、当時は今ほど有名ではなく、ベンチャー企業のような会社でした。それに憧れて会社を選んだというのもあります。
前回のブログでも書きましたが、早くイケてるサラリーマンになり、ブイブイいわせたかった22歳。
仕事内容、商品、企業の雰囲気などもとても良かったのですが、実力主義・年俸制が私の中でのモチベーションでもありました。

入社してからというもの、しばらくなりふり構わずずっと仕事してました。
やらなければならないことも多かったのですが、基本的には自分の意志でそれを選んだので、今、世間を賑わせているものとは違います。他の人はどうかは知りません。
この話題はこれだけでまたいくらでも記載できますが、一方的な物言い、風潮をあまり好みませんが、
ちょっとだけ言うなれば、企業やバブル世代の人たちは、価値観を押し付け、若者を洗脳せず、多様な価値観を認める社会であれば良いかと思います。
そして、休暇を取りやすくしてもらえば良いと思います(この話はここで止めときます)。

大きなプロジェクトを入社2年目秋から1年半くらい任され、それこそ365日のうち、350日は丸1日仕事をしていたと思います。
休日も何かしら仕事の事を考えていたり、アクションをしていたので頭は仕事で埋め尽くされてました。
念のため、これは私がいろんなモチベーションが常にあったからできたことだと思います。

これが今日言いたい厳しい環境(苦労)ではありません。

そのプロジェクトが落ちついてきた頃、私は次なる野望を抱いてました。
それが海外勤務です。

担当していた会社がグローバル企業であったことや、仕事上、海外の人たちと触れ合う機会が多くなっていました。
当時の一番近い上司に、「いつかは海外で仕事をしたい」と言葉に出していました。

人はなりたい自分にしかなれない、というのを一番はじめのブログで記載しましたが、なりたい自分が明確だったのか、日々の選択や巡り合わせが回ってきて、4年目の夏に「香港に行ってくれ」という辞令が降りました。

嬉しくてたまりませんでした。
まず基本的にミーハーな私は、25歳で海外勤務という状況だけで興奮していました。
ちなみに英語は全くしゃべれませんでした。怖いもの知らずの私は、行ってしまえばそのうちなんとかなるだろう、という意味不明な自信で一切その不安を感じずに、ただ、挑戦したいという気持ちで、香港という地に降り立ちました。

はじめの数ヶ月は勢いと新鮮さで乗り越えていましたが、事件は起きました。
香港に来て1年は経ってなかったと思いますが、現地の営業が退職しました。

途中からなんとなくはわかってました。あまり私と合わなかったので辞めてしまうのではないかと。
香港支社は3名だけで、経理が1名、営業が2名でした。そのうちの1人が私、現地の香港人の営業が1名でした。
よって、営業は私1名となってしまったのです。
その辞めてしまった営業とタックを組んで、通訳も頼んでいたのですが、それができなくなるということに。

仕事のボリューム的には私1人でも担当できるような状況だったので、辞めたら誰かを入れるかということにもなりませんでした。
香港の日系企業を相手にしていたわけではなく、90%は香港や中国系企業、英国系企業が取引先でしたので、私一人でそれらの人と対峙せねばなりませんでした。

英語は週1でスクールに通っていましたが、同僚が辞めてしまった時はまだ誰かと話せるレベルではなく、広東語は全く。
そんな若造が、10歳以上離れた香港人、中国人、インド人、イギリス人のお客様とどうコミュニケーションをとれば良いのか。
香港での人間関係も、はじめは仕事しに来ているから無理に友達を作る必要はないだろと、その辞めた営業担当の知り合いなどしかいませんでした。

そんな状況で、お客様のところに電話一本する、そして通うことにもかなり勇気と準備が必要となりました。
香港はライバル会社が、人のセールスをしてくる集団で、ちょっとでもリレーションが薄くなると、お客様を取られる可能性が大でした。
攻め続けなければならない市場の中で、どのようにお客様とリレーションシップを築いていくのか、お客様を取られたらどうしようと、昼夜不安と孤独に悩まされるようになりました。

これが私の厳しい環境(苦労)です。
一時期、休日外に出ない日(出る気力が湧かなかった)もありました。

そこからよしやって行こうとまた覚悟を決められたのは、人のお陰でした。
香港で友人もいなかった私が、たまたま見つけたMixi(懐かしい。。。)のコミュニティーで香港の日本人コミュニティーに勇気を出して入りました。
そしてそこから、香港昭和57会(58含む)という同年代の集まりに参加するようになったのです。
MixiというSNSに感謝しなきゃですね。

いろいろな境遇で香港に集う、同年代。
気兼ねなくいろいろ話せる友人が出来き、ご飯を食べに行き、香港ライフを皆んなでエンジョイしました。
マカオとか、餃子パーティーとか、クラブとか、海とか!?
その結果、自分は気持ちが上向き、今やれることを一生懸命やるしかないと覚悟を決めてまた歩みはじめました。
57会のメンバー、特にD氏とI氏、そしてY氏に感謝します。

 左I氏、真ん中D氏

左Y氏 
(婚約を祝い、自分がフィアンセ役になった写真ですw)

そして、Y氏の結婚式に東京でI氏とD氏と一緒に参加したのでした。
楽しかったなー、あの頃も。またいつかのメンバーで集まりたい。
(本当はみんなの集合写真とかを掲載したかったのですが、掲載許可を取るのが時間がかかりそうだったので辞めました)

英語はしゃべらざるを得ない環境にないとなかなか上達しないですね。
一番大事なのは、私はあなたとコミュニケーションを取りたいという姿勢だと思います。その姿勢を相手が感じ取れば、言語が通じなくても、お互い理解しようと努めるからです。
そして、1通にかなり時間をかけて単語や文法を調べて書くメールでのライティングは、英語を少しずつ上達させました。
また、本当に相手が言っていることを理解しようと集中すると、頭って痛くなるもんなんですよ。
私は訪問先のお客様とのコミュニケーションの後、いつも頭痛で疲労感たっぷりでした。

今もまだ適当な英語ですが、意思疎通できるコミュニケーション能力がつきました。このコミュニケーション能力とは、英語のスキルではなく、先ほどの「姿勢」という意味です。とは言っても、今もゲスト同士の日常会話にはなかなかついていけません。

話を香港駐在時代に戻すと、
最終的には、お客様のところへ行って話すことが楽しくなり、シンガポール、マレーシア、台湾などにもよく行くことになったのですが、シンガポールのお客様などには新規で飛び込み営業ができるくらい、度胸がつきました。
香港から日本に戻る時には、お客様から寂しいな、また会いに来てくれ、と言われ、それが表面上の挨拶だとしても、嬉しかった。


香港は、私を成長させてくれた土地でした。

この香港生活を通じて、得たこととしては、
・人は一人では生きていけないことを悟った
・世界が身近になり、沢山の新しい興味が湧いた
・日本人なら少し感じてしまう、海外の人たちと話す上での見えない壁が一切なくなった
・コミュニケーションはあきらめいないことが大切だということを知った
・多様な価値観と文化があり、正解はないということを知った

さて、副題に戻ります。
あまり苦労話をしても仕方ないのですが、今考えると若かったが故に、乗り越えられた困難だったなと思います。
今思えば、怖いものを知らずに、よくあの環境に飛び込んだなと。
しかし、その結果、得るものがとても大きかった。今思うとほんと香港を経験して良かった。

ありきたりの言葉ですが、
若いうちは、失敗を恐れず、いろんなことにチャレンジすれば良いってことなんだと思います。
よって、苦労は買ってするというより、勇気を出してチャレンジすると、もれなく苦労が付いてくるってことなのかな(笑)
その苦労を恐れない。苦労は絶対付いてくると思っちゃえばいいんです。成長痛とはよく言ったものですが、身長が伸びる時に、膝の下あたりが私も痛くなりました。それと同じように、人間は成長する上で、やはりいろいろな苦労が伴うのではないかと思うのです。
そして困ったら、人を頼ったら良いのではないでしょうか。
何かにチャレンジしている姿を見れば、少なくとも私はその人を応援したくなります。

香港の後の仙台時代にI氏が嫁さんと遊びにきてくれました。
I氏にも香港時代に将来は温泉宿やるから投資してね!!なんて話してたな〜。

今の私もチャレンジの真っ最中。
会社辞めて、起業して、自営業、田舎暮らしというチャレンジをしました。
とても楽しいですが、もちろんその裏には、、、。
でもそれは、決意した時からわかっていたことなんですよね。そんな甘いもんじゃないから、いろんなことがあるだろうと。
そういう気持ちが前提であると、逆に困難な事にぶちあたった時に、「あっ、来たな〜」って思い、よし、これは成長するチャンスだと捉えてます。

起業、田舎暮らしを選んだ自分が、どのような困難があるのかを知りたい方も多いようですので、順々にお話しますのでお待ちくださいませ。

そして、3月のGuesthouse Raichoは3連休以外、まだ空きありますので、冬をまだ楽しんでない方、ぜひ遊びに来てください。
予約はこちら

好きな遊びがすぐにできる場所に住んだ方が良い、職場は・・・。

今日はこれからのライフスタイルという観点のブログです。
イメージしやすいようにまた過去の自分を紹介しながら、記事を書きたいと思います。

結論から言うと、遊び方は住む場所に大きな影響を受けるので、好きな遊びがすぐにできる場所に住んだ方が良いのではないか、というのが私の提案です。
さらに言ってしまえば、これからの時代、仕事はどこにいてもどこからでもできるのではないでしょうか。

千葉で育った私が、気象学を学びたいということ、雪国に憧れていたこともあって、2001年に新潟大学に入学して学生生活を送りました。
関東の国立大学に前期で落ちたという事実もありますが、運命がそこに自分を運んでくれたということにしましょう(笑)
千葉の海浜ニュータウン地区の高校に行っていたこともあり、それなりに都市の高校生活(東京都民からすればど田舎ですが)を満喫していた自分が、新潟という地方で生活することにより、遊び方にも変化がでました。

一つは千葉時代に憧れていたスノーボードをはじめました。
新潟市はスキー場までそれなりに距離があるのですが、それでも一番近かったNinoxや胎内までは下道でも1時間以内でした。なのでナイターだけ行くこともよくありました。私がホームゲレンデのように通ったのが、かぐら・みつまたスキー場。新潟県は雪は沢山ありますが、様々なスキー場に通った結果、雪質が微妙なところも多く、かぐらに行けば、はずれはなく雪質などに満足できたからです。
かぐらは新潟といっても群馬との県境、学生時代は貧乏でしたので、高速など使わずもちろん下道で2時間半から3時間かけて行きましたね。
それでもみつまたゴンドラが動く7時半にはだいたい着いてました。
休憩と昼食はかぐらゴンドラとかぐら第一高速リフトで、まさに1日中滑っていました(笑)
あともう一回リフト乗りたいと、リフトの係員に、「もう一回いいですか?」と何度声をかけたことか。大学2年の時は3日に1回は新潟県内のどこかのスキー場にいってましたね。塾講師のバイトを週3,4でやって、そのバイト代を全てスノボに使っていた気がします。

そして、学科が自然環境科学科だったので、授業のフィールドワークで野外実習もあったのですが、新潟には手軽な山も沢山あり、仲間と登山もしていました。大学に近い弥彦山には4年間で10回は登り、中越にある山はだいたい登ったと思います。

学生時代に何度も登った弥彦山

もう一つ、1年目は大学の六花寮で過ごし、2年目からはキャンパスに近いアパートで1人暮らしをしましたが、両方とも海がとても近かった。
六花寮の裏は関屋浜、アパートから坂を下っていけば、五十嵐浜と小針浜との間に全く人のいないプライベートビーチが広がっていました。
真夏は授業の合間、休みの時など、チャリでその坂をいっきに下って、誰もいないプライベートビーチでプカプカ浮いたり、テトラポットまで泳いで、テトラに登って昼寝をしていました。

    五十嵐浜と小針浜の間のプライベートビーチ

キャンパスが市中心部から30分ほど離れていたこともあったせいか、新潟中心部にも繁華街はありますが、新潟の繁華街に興味を示すことはなく(中途半端だったということもある)、飲み屋もそれなりにあったキャンパス周辺(五十嵐、内野)でほぼ生活していました。

元々、憧れていたような遊び方が、この新潟という自然で遊ぶフィールドが沢山ある地で実現でき、自然で遊ぶことの心地よさを身体が覚えてしまいました。

さて、これが都内で学生生活を送っていたらどうなっていたでしょう。
スノボもしたかもしれませんが、3日に1回は行かないですよね。
登山もしたかもしれませんが、これまた頻度は絶対に新潟より少ないでしょう。
飲み会は新宿、渋谷辺り。金曜日は終電で帰り、平日はCafeで友達と過ごしてコーヒーにお金を使っていたでしょう。
デーマパークに行ったり、おしゃれな街を歩いたり、大規模商業施設に行ったりが中心の休日。
それはそれで楽しいと思いますが、遊び方が全然違いますよね。

興味の度合いは人それぞれですので、もちろん都会に住んでいても週末など自然で日々遊んでいる人もいるかもしれませんが、それぞれの遊び場が近ければ近いほど、思い立ったらすぐその遊びができ、遊ぶ頻度が高くなることが言えるかと思います。

自分の話に戻りますが、さらに時を進めると、
新潟での大学生活を通して自然で遊ぶことの心地よさを知り、そのまま自然の生活をはじめるかと思いきや、若さもあったのでしょう、いつかは自然の中で住みたいという想いを抱きましたが、4年間の地方の学生生活の中で、都会での生活にまた憧れました。お金がなかったというのもあるかもしれません。理系でしたが大学院進学はほとんど考えず、さっさと就職して貧乏を脱出し、仕事のできるかっこいいリーマンになってブイブイ言わせたいと思うようになったのでした(笑)

人間は無い物ねだりをするものですよね。

そして、10年という都市に住む社会人の生活の中で、なかなか自分の時間を作れずにいた私は、会社勤めの最後の3年で震災後の仙台に赴任するまでは、学生時代にハマったスノボも山登りも1年に1回行けるか行けないかになりました。
その代わりに時間がない中でも、住まいからすぐに楽しめる憧れていたシティーライフはそれなりに満喫しました。
と言っても、その満喫の仕方は今となっては微妙ですが、美味しいお店にご飯を食べにいくこと、とか、お気に入りのお店で服を買うとか、新幹線使って日帰りや1泊旅行して、贅沢三昧でパーっとお金を使うとか、お金使うことばかりの遊びでしたね。
その生活に変化が現れたのが、仙台赴任です。
仙台という場所についてはまた別の機会で一つのブログとして書きますが、自分を呼び戻すとても良い場所でした。
それなりにコンパクトな都市であり、山も海も近い。なので、休日にサクッと東北の山登りに行くこともできれば、スノボにも簡単に行くことができるようになりました。
それが徐々に自分の中で、やっぱり自分の興味はこっちにあるんじゃないかと、どこかで蓋をしていたというか、見えないようにしていた身体に染み付いていた心地よさを思い出してきたのです。

鳥海山の晩秋(初冠雪)登山
会社を辞めるきっかけはいくつかありましたが、仙台という場所がかなり影響したというのも言えるでしょう。

以上の長い経緯で、最初に述べた結論をもう一度言うと、
遊び方は住む場所に大きな影響を受けるので、好きな遊びがすぐにできる場所に住んだ方が良いのではないか。
今趣味なり、好きなことがあるのであれば、できるだけそれができる近い場所に住んだ方が良いのではないでしょうか。
それが結果として都市の人もいれば、田舎の人もいるでしょう。
多くの人間は様々な理由をつけて、やりたいことをやりません。
本当はもっと◯◯がしたいけど、時間もないし、遠いし、お金かかるし。そしてそれが積もると精神的なストレスになります。
物理的に近い場所にいると、各種のハードルが下がって、簡単にできるようになるため、やりたいことができないというストレスが溜まることはないでしょう。

現在乗鞍に移住して、本当に最高だなと思うことが、最高の天気やコンディションの時や、最高を狙って、すぐに近くの美しい景色を見に行くことができたり、日本アルプスに登山に行くことや、車で1分でリフトに乗れてスノボができることなんですよね。そしてさらにやりたい遊びが沢山ある。

   絶好のコンディションの乗鞍岳BC
これは、私が自然体でいられて、日々充実感を感じる理由の一つです。
やりたかったことが、すぐできる環境が目の前に広がっているわけです。

そして、今の時代、これからの時代、本当に都市のビルの中や繁華街で仕事をする必要性がどれくらいあるでしょうか?

現段階において都市というのは、人、物、お金が集中している結果、企業がお金を稼ぐ上では効率的な場所であることは言えると思います。
しかし、それが良いものを産み出すかどうかはまた別の話だと思います。
この話は書こうと思えば、ズラズラいくらでも書けますが、ここから先は皆さんの創造力にお任せして、
要は、職場(仕事)があるから、そこに住むという縛りから解放された方が良いのではないでしょうか?
もちろん、どこでも良いというわけではなく、仕事と遊びのバランスを考えた上で、住む場所が決まることもあるかもしれません。
遊び(自分が心地良いと思うことができる事)をもっと中心に考えて、住む場所を選んだ方が、きっと幸せですし、良い仕事ができるのではないかと思います。
それと、住むまで行かなくても、一時的(5日くらいから数週間、1年とか期間は様々)に遊び場が近い場所で仕事をするというスタイルもあっていいかもしれませんね。
Guesthouse Raichoに滞在しながら今のその仕事ができちゃう人、結構いるんじゃないでしょうか?
Wifiのスピード結構早いですよ(笑)
クリエイティブな仕事などは、この大自然の中の環境は最適だと思いますね。

みなさん、沢山遊びましょう、そして良い仕事をしましょう。

インバウンドとゲストハウス 

今回は、ブログのカテゴリーをビジネスの観点で書きたいと思います。

私の初の海外である2005年の香港・オーストラリアへの貧乏卒業旅行を紹介しながらいわゆるインバウンドのニーズとゲストハウスををすることになった背景を紹介し、ビジネスについても触れていきたいと思います。

大学4年の3月(2005年)、前回のブログにも出てきた高校時代の親友I氏と海外に卒業旅行に行きました。予算は20万。オーストラリアのエアーズロックに行くことと、もう一人の高校の親友T氏がシドニーに留学していたので、T氏に会いに行くことも目的でした。
安い航空券を探し、香港を経由することになったのですが、せっかく香港を経由するのだから、香港で1泊か2泊しようということになり、香港にも行くことになりました。まさか、その4年後に香港に住むことになるとは思いませんでした(香港での経験はまた別で紹介します)。

全ての航空券で14万(記憶が定かではない)ほどしたので、実質6万で宿泊費、食費、行動費、その他をやりくりしなければなりません。旅程は11日くらいだったと思いますが、そうなると1日5000円くらいで過ごさねばなりません。

香港での宿泊は、なんていうカテゴリーに入る宿泊施設なのかよくわかりませんが、個室でしたが、当時で3000円くらいの激安ホステル?に泊まりました。今でいうAirbnbで多い、個人のアパートの1室を借りるような感じでした。香港特有の鉄格子のような扉を開けて入った不思議な宿でした(笑)

オーストラリアの宿泊先は全てYHA(ユースホステル)
学生時代に日本のユースホステルに何度か泊まったことがあったのですが、日本のユースはもちろん良いところもありましたが、多くのユースが、なんというか営業する気があるのかないのか良くわからないくらい、魅力がない施設になってしまってますよね。その点、オーストラリアのYHAのレベルの高さといったら、凄かったですね(12年前の話です)。こちらも1泊3000円くらいですが、オシャレで機能的で快適でした。
       Railway Sydney YHA        ドミトリーが列車の建物

学生時代にキャンプは何度かしましたが、滞在する宿泊施設で自炊するのは、この旅が初めてでした。
残念ながらYHAの共同キッチンの写真をメインには撮っていないのでわかりずらいですが、とにかく共同キッチンが広い。そしてなんでも揃っている。

ただ、残念だったのは、食材と料理の腕でした。
お金がなかったのもありますが、我々が手にできる食材は限られていたので、作る料理が貧素でした(笑)

最大の目的だった、エアーズロック(ウルル)やカタジュタを満喫し、

留学中の友人と、ブルーマウンテンにも行き

シドニー周辺の観光もして、

最高な旅でした(懐かしいな)。
(結局私はお金が足りなくなって、留学している友人にお金を少し借りました。。。)

さて、さらっとしか記載してませんが、これが私の海外の旅の原点なのですが、貧乏だったが故に、「自炊」をしながら旅をしました。もちろん外食も何度かしましたが、だいたい自炊でした。暮らすように旅をするというのは意識してませんでしが、半分そんな感じでしたね。海外旅行をしている人は当たり前だと思いますが、海外旅行における食事は「自炊」と「宿泊施設ではなく、街のレストランなどで食べる」だと思います。そして予算に応じて以下のようにそのバランスが変わってきます。

1.超節約したい(貧乏旅行)=ほぼ自炊
2.節約したい=できる時は自炊、自炊ができない、食べたいものがある場合はレストランで食事
3.美味いものを沢山食べたい=基本はレストラン、たまに自炊
4.豪遊したい=宿泊施設内かレストランで食事

訪日外国人の平均の日本の滞在日数は10日前後。
その10日間で、4のカテゴリーであっても日本の旅館・民宿・ペンションなどの宿泊施設の標準サービスである1泊2食付きの宿泊をするのは1泊,2泊あればいい方です。なぜなら、そもそも東京、名古屋、大阪、京都などの街が旅の中に含まれており、レストランで美味しい日本食を食べる計画を立てるからです。高山に行けば、ランチやディナーに飛騨牛を食べれるレストランに行きます。宿泊施設で食べるより、レストランの方が最適な量、そしてコストパフォーマンスが良い場合が多いことも皆わかっています。

1泊2食付きの宿泊費を仮に12,000円とすると、その内訳の半分くらいは食費となります。
6000円で朝食と夕食は高いですよね。。。さらにお酒を頼むとまた高くなりますよね。お金のある人たちの中には、毎日そのような費用をかけて旅もするでしょう。宿泊サイドで言えば、そこにターゲットを定めるのも一つかもしれません。やるなら徹底的に高級志向とか、徹底的に日本を感じられる設えにするとか。そうなると海外旅行者は、その特別な1泊、2泊のためにそこに宿泊したいという旅の目的になると思います。それでも、多くの海外旅行者(1,2のカテゴリー)は、食費は1日1人2000円くらいで済ませたいはずです。1000円以内というバックパッカーもいるでしょう。そうなるといわゆる日本の旅館・民宿・ペンションで食事付きを選択せず(B&Bは選択される)、自炊かレストランに行くのではないでしょうか。日本の宿泊形態がむしろ、世界からするとガラパゴスで、海外では1泊2食を標準サービスとしている宿泊形態はほとんど見かけません。

現在は格安航空券などで海外旅行者がとても増えており、途上国の人たちも海外旅行をする人が増えています。そして海外では、家族で当たり前のようにゲストハウスやホステルに宿泊します。日本もゲストハウスが増えていますが、それでも海外に比べてみればまだまだ絶対数が少なすぎるでしょう。さらに、日本はまた独自のゲストハウス文化が生まれているところもあり(これもまた別のブログで書きます)、家族で泊まれるゲストハウスが少ない。

なぜ、日本の宿泊施設は世界から見るとガラパゴスなのでしょうか?

まず宿泊施設のメインターゲットが、休日の取りにくい自国の日本人だったからでしょう。
忙しい日本人が国内で1泊2日や2泊3日の短期間で充実した観光旅行となれば、旅行者は自分で自炊するとはならず、食事付きプランを選択すると思います。また日本ではお母さんがメインで食事を作っているとなれば、旅行する時くらいお母さんは「食事作りから解放されたい」と思うでしょう。海外(特に西洋諸国)では食事はお母さんが作るという考えは基本的にはなく、食事作りは皆んなでやるものという認識で、解放されたいという気持ちが湧くことがそもそもありません。
※これは実際にRaichoに宿泊された日本人夫婦の奥さんが、私は本当は食事付きがよかった、旅行する時くらい食事を作りたくない、ということを言われたことが何度かありました。ちなみにRaichoで自炊する家族や夫婦、カップルはむしろ男性がキッチンに立つ場合が多いです。親が子供に食事作りを任せるケースも何度も見ています。

さらに日本人の海外旅行は、旅行会社のツアーで行くことが主流だからですね。
今でも空港のカウンター前に、ツアー会社の添乗員が付き添って、チェックインする日本人の旅行者は多いですよね。中国も多いかもしれません。しかしこれは、世界の旅行者の中では、あまり見られない光景です。ツアーはプラン内容にしては、個別でそのプランを組むより、かなり安く済むと思います。自由行動時間はあるにせよ、全体のスケジュールがびしっと決められ、食事をする場所もだいたい決められています。お得で楽といえば楽。旅行会社のツアーの中に、自炊で過ごすような工程は入りませんよね(笑)
よって、そもそも自炊して旅をするということを体験していない人が他の海外諸国に比べて相対的に多い。
ただし、海外旅行経験が少なくても、山に行く人は、自炊に慣れているので、自炊旅を好む傾向があります。

こういった背景で日本には自炊のできるゲストハウスやホステルがこれまであまり増えなかったのでしょう。
東南アジアなどではゲストハウスやホステルなどの合計ベット数は普通のホテルの合計ベット数並みにあります。外国人旅行者が増え続けている日本では、自炊ができる宿のニーズはますます高まるでしょう。ちなみに、日本のゲストハウス・ホステルでは、自炊キッチンがおまけのようにしか付いていないところも多いです。周りにコンビニがあればそれでも良いかもしれませんね。

現在のゲストハウスのオーナーは、そもそも世界を旅していて、ゲストハウスをやりたいと思う人が多いようですが、自分は「ゲストハウスをやりたい」というより、「温泉宿をやりたい」と思っていました。なので自分の場合、ゲストハウスという宿泊形態を「選択した」という方が正しいでしょう。そしてそれはインバンドのニーズを満たすことが選択した理由の一つです。日本人にも長く滞在してほしいから安価な価格設定ができるゲストハウス型にしたというのも理由の一つです。他にもあります。

ここで、旅館業営業許可の種類には、ホテル、旅館、簡易宿所、下宿があります。
ゲストハウス・ホステルはだいたい簡易宿所で許可取得しますが、Raichoは元々旅館だったので、今も営業許可上は旅館です。平成27年3月末現在の旅館業の営業許可施設数は、78,898施設。前年より621施設の減少となっています。これだけインバンウンドでホテルが足らないと言っているのにも関わらず全体で減少しているんです。その理由は種類別営業許可数で特に「旅館」が減少傾向にあるからです。特に地方で。これは、そもそも日本人の国内旅行の需要が減っており、その国内旅行者がメインターゲットの旅館が少し厳しい営業状況にあるからです(外国人をターゲットにしている旅館は売上が伸びているでしょう)。
日本人の国内旅行はこれからさらに減少傾向ですが、もちろん一定のニーズは残ります。しかし、需要が減っている中で生き残るためには、かなり特色がないと難しいでしょう。

その国内需要の減少をカバーするのが、インバウンド。

その中で、先にも述べたように、10日間の1泊か2泊の旅館で1泊2食の特別な宿泊のための温泉旅館より、その他の日数滞在する宿泊形態(ゲストハウス型温泉宿)の方が需要に対して供給量が圧倒的に少ないだろう(=ビジネスチャンス)、かつ資金力のない、経験もない私がビジネスを軌道にのせるためには良いだろうと考え、Guesthouse Raichoにして、現在軌道に乗せるべく頑張っています。今の所、冬以外はなんとかその狙い通りになっています(冬の苦戦はまた別で書きます)。

さて、結論として何が言いたかというと、何かやりたいことがあっても、マーケティングを行い、やり方=つまり戦略を考える必要があるということです。
私はマーケティングや戦略の立て方を前の会社の上司、先輩から学びました。本当に感謝しており、いつか何かしらの形で恩を返したいと思っています。

現在、学んだことを実践する日々。トライアンドエラーの繰り返しです。そしてこれは経験としてできるだけ詳しく記録として残すことで、誰かのちょっとした参考になればいいなと思っています。今日はさわりの部分だけの紹介ですので、これからビジネスについても具体的なことを書いていきたいと思っています。

ちなみに、Guesthouse Raichoでは4月中旬からインバウンドの宿泊需要が高まります。
GWは水芭蕉が乗鞍高原内に綺麗に咲き、残雪の残る春の高原散策、上高地散策が楽しめ、乗鞍岳ではスプリングバックカントリーなどを楽しめます。宿泊をご希望の方は早めにご連絡下さい。
Guesthouse Raichoの宿泊予約は以下からお願いします。
予約はこちら

ケミコウ

先日、1月31日に友人を連れて冬の上高地に行ってきました!!
最高の天気で、神が降臨していたような感覚になり、ただただ、美しい自然に感動しました。

「神降地」や「神河内」とも言うそうです。
この景色を見てしまうと、「あっ、もう満足」と心の底から思えます。
余計な欲が無くなるというのか、地道に自然体で生きていこうと思うのです。

今日は自然体について、過去の自分を少し紹介しながら、イメージをクリアにしていこうかと思います。

大人になるにつれ、責任や役割が増え、少しずつ我慢であったり、自分を抑えて何かに対処し、日々の選択をしていくことが増えていきます。これは当然と言えば当然の流れですよね。
しかし、それがどんどん強くなると、自然体の自分はどこにあるのだろうと、本来の自分が見えずらくなることがありますよね。
特に日本人は自分を犠牲にすることを美徳と感じるような精神や、集団帰属意識が強いところがあるので、その傾向が強いと思っています。

若い頃はどうでしょうか?
これまた人それぞれの境遇次第なので、なんとも言えないのですが、自分は両側面ありました。

中学時代の私は集団帰属意識が強く、あまり個性がなかったように思えます。
みんなが持っているから、自分も持ちたい、持たないと置いてかれる、ナイキのエアーマックス、たまごっち、プリクラ手帳(笑)
洋服なんて、ブランド名だけを意識して、そのブランドの服を持っていることに意味があった気がします。
この辺はまだ思春期のかわいいレベルですが、なんとなく常に、集団から外れることが怖いと感じていたので、集団の流れに合わせて日々行動をしていた気がします。

そんな自分に違和感を感じていたところもあり、少し遠い高校に行きたいなと思っていました。

中3の受験を前にして、いくつかの高校説明会に参加する中で出会ったのが、ケミコウ(検見川高校)でした。

説明会の行きや帰りで見たケミコウに通う先輩たちの目が、なんとなく皆生き生きして見えたんです。
他の高校の説明会にも参加しましたが、明らかに違いがあったのです。
下駄を履いて登校していた人もいましたし(笑)
そして私はケミコウを第一志望として受験することを決め、合格して入学することになりました。

しかし、入学当初の私はまだ中身は中学時代だったので個性のないまま。

とりあえず、入学当時は東京ストリートニュースを読んで、いけてる高校生を目指そうと思ったのです(笑)
高校入学は1999年だったと思います。
・学ランは千葉中央駅にある赤とんぼで買う。
 もちろん、セミ短、ちょっと太めのズボン、HARUTAのローファー
・バックは都内のイケてる私立高校の青バック
 自分は最初は岩倉・次は昭和なんちゃら(忘れた)・敬愛学園(千葉)
・髪の毛は少し茶髪のメッシュを入れる(チキンだったのでほんとに軽く)
・ツンツンヘアー とりあえず髪をネジってツンツンさせる(笑)
・1999年入学当初の高校生1年生がほとんど持っていたなかったPHSを入学当初から持つ
 携帯激動期でPHSから携帯パカパカ時代になった黄金期の高校生活ですね。
 着メロを自分たちで作り、和音になった時の感動は忘れません(笑)
・放課後は部活でなくバイト、街歩き
・ラルフのベストをワイシャツの上に着る
・ベルトはもちろんFENDI
・私服は当時流行っていたスーツとモード系

とりあえず、これでなんとかイケてる高校生グループに入っているつもりでした(笑)

そして、極め付けはこれ、忘れもしない今も大親友のI氏に向かって放った出会って最初の私の一言。
「あっ、FENDIのベルトじゃん」
人をあるカテゴリーに当てはめることに慣れてしまっていたのでしょう(笑)

しかし、ある事をきっかけに、私はケミコウに染まっていき、自然体になっていきました。
それは、恩師でもある1年の時の担任が、なぜか、このいわゆるちょっと高校デビュー系のどこにでもいそうな田舎者に、
「藤江、おまえ、クラスの委員長やれ」
と言い放ったのです。
私からすると、意味不明でしたが、結局断れずにクラスの委員長になりました。
(なぜ担任が私を指名したのかは、その後聞いており、藤江は委員長タイプだとはじめから思ったそうです)

そして、入学して間もないまだ4月の終わりに1泊2日のリーダー研修と言われる1年〜3年生のそれぞれのクラスの委員長が集まる研修会に参加しました。
親友のI氏など、その後特に仲良くなったメンバーも多くがリーダー研修に偶然なのか、必然なのか参加していました。
なので、このリーダー研修に参加することに導いたK先生には本当に感謝しています。

リーダー研修のテーマが確か「自由」についてだったと思います。
これまでの私であればそういうテーマに真剣になって話合うことは、いわゆる「ださい」という部類でしたが、ここに参加した特に先輩方は真剣にそのテーマについて話をしていました。
また夜は、当時ケミコウの応援団長だったM氏が「愛について語ろう」とか言い出し、なんか語っていました(笑)
ちなみに、その大親友のI氏や、入学当初よく遊んでいた音楽部(私はPHS代を払うためバイトを最初に選んでしまったので入っていない)のメンバーが組んだバンド名がなんと「愛について」という名前。
今となっては少し恥ずかしいですが、そういう学校だったんです笑

今までは、何かを真剣に話したりすることは、あまりかっこよくないで蓋をしていた自分ですが、ケミコウのみなさんの型にはまらない、ありのままの姿を見たことで、閉じていた蓋が開きました。そのほかにも、多くの友人のお陰でいくつもの蓋が開けられ、その後私はほぼありのまま(自然体)で青春の高校生活を送ることになりました。
もちろん、思春期ですので、まずかっこよくありたいとか流行っているものがほしいという思いはありましたが、誰かが持っているから持たなきゃいけないとか、ブランド名だけで買わなきゃいけないという事は一切無くなった気がします。そして、グループというものをそんなに意識せず、自分がやりたいことをやり(野球応援とか、スカバンドとか、早めの予備校通いとか)、誰とでも仲良くやっていた気がします(たまに八方美人だとか言われましたけど笑)。そして、いろんなテーマを友人と通称ケミハマ(検見川浜)で語り合い、多くの夢を見ていました。

書き出したらきりがないケミコウでのエピソードがたくさんあるので、この辺で一旦ストップします(笑)
とにかくよく笑った高校生活でした。

ポイントは、「人」と「環境」と「時間」です。
高校時代に自然体になれたのは、間違いなく、周りの友人や先輩方が皆、自然体だったからです。
そして、そんな自然体になれる環境がケミコウという場でした。
そして、高校時代は、常にゆったり時間が流れていたと思います。
何かに追われることもなく、目の前の楽しいと思うことに時間を費やし、笑っていた。本当に心地の良い時間でした。

上高地に戻ります。
上高地に行ったのは、その高校時代の友人がわざわざ千葉から来るというので、絶景を見せてあげたいと思ったからでした。
その友人が来なかったら、その日上高地に行くことはなかったと思います。そしてその友人は自分が自然体でいられる友人でした。
上高地という素晴らしい自然環境は、そこにいるだけで、心が落ち着き、感動し、素直な自分を呼び戻してくれます。
平日ということで他に2人しか会わずに絶景を楽しんでしまえる時間。河童橋まで行こうかなとも思ったんですが、
大正池ですでに大満足で、ここでゆったりしようと決めたことで、時間を気にせず、満足行くまでその景色を眺めることができた。

自然体でいるためには、この3つ「人」と「環境」と「時間」を整えると良いでしょう。

イメージ湧いたでしょうか?

田舎にいると、この3つが整いやすいので、田舎暮らしをオススメしたいのですが、そうは言っても簡単にできるものではありません。
しかし、都会であろうが、この3つを整えて、自然体で過ごすことは可能です。
ただ、都会においては、環境を整えるのが少し難しいかもしれませんね。いろんな雑音や雑踏があるので。
常にとは言いませんが、都会の生活においても、自然体に戻れる方法を知っておくと良いかもしれません。
それは休暇の取り方だと私は思っています。
一つの提案が「暮らすように旅をする」です。
こちらについては、少しWorks内で紹介をしていますが、また今度ブログでも一つ一つ事例を紹介していきたいと思います。

また上高地自然にかえる旅ガイドツアーも行っていますので、行きたい方はお連れします!!
平日、オススメです!!!(天気によって行けない場合があるので、余裕のある日程を確保することをオススメします)
スノーシューで遊ぶ
ツアーの申し込みはこちらまで
お問い合わせ

ではまた次回!!

個人ページ&ブログ立ち上げました

19歳の大学の夏休み、現在住んでいる乗鞍に近い”さわんど”の旅館でアルバイトをした時、いつかはこの北アルプスのある地域に住み、雪国で温泉宿をやれたら良いなと思っていました。

13年後の2015年、それが現実になり、Guesthouse Raichoをオープンしました。
一つの夢が叶ったということです。

ただ、それは、スポーツ選手が目指していた例えば全国大会に出る切符を得たというようなもの。
とても嬉しいことですし、そこに至るまでの過程で多くを経験し、自分なりに努力もしてきました。しかし、出られただけで課題はいくつもある。その課題はどうするのか、そしてその舞台でどう結果を出すのか、またさらに先の舞台を目指すのか、などを最近考えていました。

自分は人としてもっと成長して人間力を高めたいという想いがあります。
そして何かの役に立てたらよいなと。

だから、ここを通過点として、新たな目標を定めて目指していことにしました。

ここに至る過程の中で、振り返ると大事だったポイントとして、よくやりたいことを周りの人に話していた自分がいました。
私の近い友人や家族は、誰もが雪国で温泉宿をやりたいというのを知っていました。
ですよね?

「人はなりたい自分にしかなれない」

この言葉は、前職場の上司から言われた言葉です。
これはなりたい自分像を明確にしていくことによって、日々遭遇する様々な選択肢が、そのなりたい自分の方向の解を選択肢から選び、それが日々積み重なっていくと結果としていつかそのなりたい自分にたどり着いているというものです。逆に言えば、なりたい自分像が曖昧だと、日々の選択がブレ、行き先を見失います。
そして、なるべくやりたいことは有言していくことで、自然となりたい自分が明確になります。

このブログはその有言の場でもありますが、軸としては、サブタイトルにもある自然体で生きることの心地良さを伝えていきたいと思っています。
自然体で生きると決めた背景と今に至る過程、また興味はあるけど、実際にはでなかなかできない、脱サラ起業田舎暮らしの現状について、自然の魅力、豊かなライフスタイルの追求、大切にしたいこと、旅、ビジネス、趣味、たま〜に世界情勢&社会問題など、様々なことを軸をベースに語っていきたいと思います。

ちなみに、ここで記載することは、単なる一人の人間の一つの考えや生き方であり、正ではありません。何か少しでも価値観が共有できたり、何かほんの少しでも皆様の日々の生活にお役に立てたら良いなと思っています。

興味がなければスルーで、興味のある事については、コメント等もウェルカムです。
ただ、このページは議論する場ではないと思いますので、もう少し細かく知りたい、話たいなどあれば(たぶんないと思いますが(笑))、その場合はメニューのContactから直メッセージ下さい。

タイトルのLoEarthsについてはメニューのAboutに記載しましたので、知りたい方は読んでみて下さい。

写真は2014年のGWに弾丸の旅で行ったマチュピチュです。
このマチュピチュの旅は脱サラを決意した旅で、様々なテーマが凝縮された旅でした(すでに知っている人も多いですが)ので、近いうちに紹介しますね。